前門狼、後門は虎。伍


『魔術は恐ろしい』

いつの言葉だったか。

『……魔術士なんて人種に会ったらまず逃げろ。無理なら、』

術士の持ち物、服、身振り、言葉、周囲物。全てに注意し、そしてとりあえず全て壊せ、か。
ガウシェンが独り言のように言っていた言葉が頭をよぎる。

 *

その時は、唐突に訪れた。

「グレイ!!」

後方でナタが叫ぶ声が聞こえる。
だが、それに答える余裕はなかった。

北端にある塔の入り口から走り出た俺を楕円の紫光が包み、しだいに内側へ縮んでいっている。
よく見ると、足下に細い線が何本も走っていて、細かい文様が描かれていた。
舌打ちし、俺は真新しい線を足で踏み擦り、次々と消す。

「上だ!」

「アーベルトっ!!」

ガウシェンともう一人、おそらくやつの弟の声が聞こえる。
その声につられ、頭上を見上げると真っ黒な髪を夜風にたなびかせたまま、今俺が出てきたばかりの古塔の屋根にたつ男がいた。

アーベルト・ミラジュ。
ザイン侯爵家の執事長、前ミラジュ家の当主の養子……、か。

頭に呼び起こされる情報は、すべて州都へ来てからガウシェンに連れて行かれた薬屋兼情報屋という、胡散臭いことこの上ない家で与えられたものだ。
そこにいた老夫婦は至って普通の人々だったが、彼らの住む家自体がそもそも怪しすぎた。

ふと、周囲の色が変わった気がして、慌ててそこから飛び退く。
ほぼ同時に俺がいた場所のすぐ近く、楕円の中心当たりから、どぷり、と黒い液体が噴き出した。

――なんだあれは。

とろり、と地面を浸食する液体は、触れたものを悉く黒く染め、そして瞬時に萎れさせてゆく。
落ち葉も草も、倒れていた傭兵達ですら飲み込み、それはどんどん範囲を広げている。
悲鳴すら、その不気味な黒さで包み込み、含み込んだものを決して逃さない。


「我、盟約を交わせし者。血を代価とし我が命を聞け」

突如、虚空に朗々とした声が轟いた。
どこから聞こえてくるのか、四方八方に乱反射しているように聞き取りづらく、けれど内容は驚くほどすんなり脳まで届く。
声の主は、なぜか考えるまでもなかった。

「アーベルト!!てめぇ降りてこい!!」

ガウシェンが怒鳴り、光丹が塔へと跳躍する。
その姿が、ふいにタバでの蒼と被った。

「待て光丹!」

制止をかける。
が、遅かった。

「危ないっ!!!」

光丹に紫の光の粒子が襲いかかる。
ナタの悲鳴のような声と、俺が楕円の陣から抜け出し、隠し持っていた短剣の一振りをアーベルトに投げるのは同時だった。
剣はまさにアーベルトに当たる直前で、カキンッとなにかに弾かれ、奴までは届かない。
だが、俺と同じように、長剣を放り投げていたガウシェンのものは、わずかにアーベルトに掠る。
それにより、ふっと粒子が消え、光丹が真っ逆様に地上へ落ちてきた。
地面に激突する直前、猫のようにぐるんと回転しどうにか無事に足をつけた。

「光丹!」

「大丈夫です、少し、驚きましたが」

声は平坦なものの、微かだが動揺がある。
下を見ると、いつの間にか黒い液体は動きを止めている。
まるで生きているように、ぐぐっ、と浸食範囲を広げようと動いているように見えたが、俺まで4メートル手前あたりが限界のようだ。

「カジュリタの地を穢せし輩に怒りを。女神の子を穢せし輩に鉄槌を」

淡々と響く声には、怒りも憎しみも、何もない。
ただ冷徹であるだけだ。
カジュリタ、というのが何なのかはさっぱりわからないが、穢せし輩というのが俺達であるというのは確かだ。

「アーベルト!貴様は何者だ!?」

答えが帰ってくるわけはないが、聞かずにはいられなかった。
訳がわからないのだ。
この男の行動には一貫性がない。
そして、俺の生きてきた内の常識ではあり得ないことが起こっている。

俺の予想に反して、答えは返ってきた。

「私はアーベルト。ただの贄です、それ以上でもそれ以下でもない」

その声は、今までと違い、塔の上から聞こえてくる。

「贄、だと……」

「どういうことですか!?贄って、誰かに脅されてるとかっ!」

ナタが声を張り上げる。

「違います。私自身の意志で成し遂げようと願ったことです」

平坦な声が返ってくる。
その声音に感情は欠片もみられない。

願った?
神の供物となることを、か?

ぎり、と歯を噛みしめる。
その時、再び辺りが紫色の光で包まれ、次は静止していたはずの黒い液体を包み込んだ。
と、液体が発光物を取り込み、見る見る光を帯びる。

――――そして。

「何、これ」

ナタが呆然とつぶやく。

液の中から、まるで殻を破るように出てきたのは、全身薄黒い粘膜で覆われた傭兵だった。
ただの傭兵ではない。
男達の顔に生気はなく、ある者の目は血走りある者は白目をむき、しかし全員ゆっくりと統率のとれた動きでこちらへ向かってくる。
気味が悪い、どころの話じゃない。

これではまるで……。

「なるほど。死者の行進か。ふむ、人間とは恐ろしいものよ」

したり顔で頷くのは、いつの間にか俺の側に来ていた月狼だ。

「やはりこいつらは死んでいるのか」

「当然であろう。見てみよ、あの黒い液を。包み込むものの気を全て奪い去っておるわ」

月狼が牙を見せ指し示した地面は、死んでいた。
草も木も人間も、落ち葉さえも。
全てを黒く塗りつぶしてしまった液体は、光を吸収し死人を立たせた後、忽然と消えてしまっていた。
薄黒い膜から透けて見える男共は、既に何日も前から死んでいたような人相だ。

「酷い……」

ナタが口元を押さえ、僅かに涙目になっている。

死者達はゆっくりと、だが確実に俺との間を狭めてきている。
後ろは塀だ。
……後がないな。

「月狼。こいつらを止めるにはどうしたらいい」

「ふん。決まっておろう」

月狼は小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。

「術者を倒せば、そやつらは土へ帰す」

答えたのは、これまで一言も発さなかった老人、ラウル・ディレインだった。
彼の声に、死人がぴくりと反応したように見えた。
老人はかまわず続ける。

「儂がこれらを相手にしよう。月狼、それからグレイと言ったな。それとガウシェン。お前達は、アーベルトを討ちなさい」

「簡単に言ってくれるな」

ガウシェンがにやりと笑い、瞬時に臨戦態勢にはいる。
軽い声とは裏腹に、険しい目はひた、と塔上のアーベルトに合わせられていて、一分の隙もない。

「ユージヴァル、ナタの側に付いていろ」

「…わかった」

ガウシェンの弟は、祖父の決めたことに異論があるようだったが、結局何も言わず受け入れた。
何故、という反論を封じる力が、老人の声にはあった。
月狼は、おもしろいとでも言うように、口元を歪め、鋭い牙を惜しげもなく晒す。

「老人よ。死人といえ、こやつらは強いぞ」

「月狼、儂を誰だと思っている。お前より、長く生きておるぞ」

不敵な老人の笑い声と共に、全員が動き出した。


 *


先制のようにアーベルトに飛び掛かったのは、光丹と月狼だった。
地面を蹴り空中へ飛躍し、塀や北棟の壁のわずかな凹凸を足場に、さほど高くない塔の屋根に近づく。
俺と言えば、地上から目に付くものを破壊し、手当たり次第にアーベルトに投げつけるしかない。

本当に。
…今日はつくづくあいつ等を羨ましく思う日だ。

「祖父さん!!」

張り上げられた声に、はっと振り返る。
視界に黒々とした液体が舞う。
粘膜まみれの男が倒れ、後ろから老人の姿が現れた。

「ふむ。ユー余所見をするな、油断は死を呼び込む」

「わかってるさ」

面白くなさそうに口を尖らせるガウシェンの弟に、老人はふっと笑う。
長剣使いばかりがごろごろする中で、老人の持つ剣は比較的細身のものだった。
実用型というより、護身用。むしろ装飾剣に近い。

「ダリス!」

影を呼び、近づいてきた黒い傭兵の脳天に剣を振り下ろした。
ぐじゅり、と刃が骨を砕き脳に食い込む。
その音に紛れてダリスは俺の前に降りたち、頭を垂れる。
右耳の後ろで結んだ金色に波打つ髪が肩にかかり、長い前髪で顔は見えない。

「こいつらを片づけろ」

ダリスが是、と言う前に続ける。

「蒼!お前はカシスとともに邸内の兵を掌握しろっ。多少手荒くなってもいい!!」

「へい、…っグレイ様。それでは御身の盾が」

「平気だ。今はあの男を止めることを最優先する」

ダリスはあからさまに顔を歪めたが、結局頷き、黒い一団に飛び込んでいった。
塔へ振り向く時、ふっ、と刺すような視線を感じた。

「……なんだ?」

「貴様は何者だ」

険悪な表情で俺を見るガウシェンの弟の後ろでは、ナタが困ったように俺と従兄弟の顔を見比べる。
その二人がどことなく似ていて、そして男が意外にも兄に似ていなくて、思わず頬がゆるんだ。

なるほど。
未だ発展途上か、それもいいな。
ガウシェンやさきほどの老人のように、彼を見て笑みをこぼす意味がなんとなく解って、俺の口元も弧を描く。
あからさまに眉を顰めた男に別のことを口にする。

「あんたは加わらなくていいのか?祖父殿だけでは荷が重いかもしれないぞ」

目はガウシェンの弟を見ながら、ぞろぞろ、と寄ってくる死人の肢体を手加減なく切り落とす。
半分は俺自身の素直な感想だった。
いくら隣国にまでその名を知られた騎士でも、老いと疲労には勝てない。
もう半分は、敵視されることへの揶揄いと、彼の立ち位置に対するちょっとした意趣返しだ。

「…貴様に、言われる筋合いはない」

むすり、と難しい表情を崩さない彼はやはりまだ若い。
その若さが面白くもあり、危うくもある。
端から見れば睨み合う形の俺達に、ひょっこりナタが従兄弟殿の後ろから俺を見た。

「あのー、二人ともっ――――グレイ!!!」

叫び声が聞こえた瞬間、くるりと体を反転させ、北上空から飛び込んできた小刀を間一髪で掴む。
危ない。
もう少し遅ければ、今頃は眉間を貫通している。

「大丈夫ですか!?」

「ナーシャ!!」

走りくるナタに、ガウシェンの弟が声を上げるのを聞き、そんな時でもないのに口元が緩んだ。

「問題ない。それよりナタ、来るぞ」

「え?」

首を傾げる彼女を背に庇い、次々と飛んでくる小刀、のようなものを剣で払い落とす。
キラリ、と磨かれた刀身に間違えたが、飛んできたのは刀ではなく氷のような硝子だった。
美しい硝子刃が矢のように降ってくる。

「お祖父さんっ!」

「喉が嗄れてしまうぞ」

飄々として、少し嗄れた声が聞こえた。
姿を見る余裕はないが、どうやらあちらも問題ないらしい。
ちらり、と辺りを見回してみると、ガウシェンの姿もなかった。

置いて行かれた、か。
顔を上げ塔を見ると、光丹がアーベルトに斬りかかっている。

「!」

月狼の毛が青白く見える。
まさに今日の月のようで、月の狼の名にふさわしい。
惚ける暇もなく降り続けていた氷も、光丹の一撃一撃ごとに、しだいにその降下速度、氷の大きさとも落ちていき、本数も減っていく。

「ナタ、大丈夫か?」

「へい、きです。私は何もしてないから」

悔しそうな響きでナタが話す。
ガウシェンの弟が何か言い足そうにして、そして俺を憎々しげに見ていたが、結局口には出さず祖父の助太刀をしていた。

お節介だったかもしれない。
ラウル・ディレインの働きを見ているとそう思えてくる。
とても病的なまでに枯れていた老人とは思えない。

繰り出される剣技は、まるで洗練された舞踏を見ているような錯覚を起こさせる。
踊っているような、という表現は適切ではない。
人ではないもののような、……まるで一匹の獣だ。
今塔で光丹を援護し飛び回っている月狼のごとく、孤高の、遙かな高みから俺達を見下ろす獣のようだった。

剣とは、振るう人間が違うとこうも印象が変わるものか、と思う。
飛び散り、黒い斑点を作る血液でさえ、老人の馬鹿げた強さを裏付けるものでしかない。


氷が全く降ってこなくなってから、ナタから離れ、老人に近づいた。
彼の背後をとる黒い傭兵の背を刃で砕く。

「おーおー、こんなとこにいた。探したのによ」

間延びした声には、聞き覚えが大いにある。
安堵する、だが一度滾った怒りはまだ収まっていない。
あえて答えを返さずにいると、相手は苦笑をもらし、腕に抱えていた老婆と少年を黒い血が浸食する地面におろした。

「お祖母さん!ヨセフ!!」

「あら、ナーシャ。元気ね」

彼女の裏返り気味の甲高い声を聞き、俺はちらりと二人に視線を投げた。
彼女の感激具合からいって、よほど心配だったのだろう。

その時、キラリッ、と再び空が不吉に光った。
駆け寄ろうとした彼女を押しとどめ、狙ったように飛んでくる、今度は本物の小刀を払い落とす。
地面に斜めに突き刺さった小刀を抜き取ると、二人の後ろ、筋肉質の男へ向かって投げた。

「うわ、酷い。忠実に命令実行した俺に向かってこの仕打ち」

「黙れ、遅い。何が忠実だ馬鹿者」

相変わらず、よく口が回る。
全身筋肉の鎧を纏った出で立ちのナキュエは、俺の言葉にぼりぼりと首を掻き、話題を変えた。

「ここじゃ危ねぇなー。嬢ちゃん」

「あ、はい」

「ナキュエ!」

律儀に返事をするナタに脱力する。
だが、そのまま放っておく訳にもいかない。
当初の目的、アーベルトはまだ捕らえられていない。

「ああ!あなたがナキュエさんですか!?」

納得している彼女を無理に南棟の方へ押しやる。
誰がナタにナキュエの名を教えたんだ……、ああ光丹か。
全くこいつらは余計なことばかり喋りたがる。
呆れていると、ぞわり、と背後から嫌な視線を感じた。

「ナキュエでかまわない。それより、下がっていろ。次が来る」

「マジで酷いな。それ、俺が言う台詞だろ」

呆れ気味に言うナキュエを睨み付けると、おかしそうに笑いながらナタの弟と祖母を背後に庇った。



「我は命ずる、カジュリタを穢せし輩に死を。それこそが女神の慈悲」

再び、不気味な声が邸内に響く。
アーベルトとは光丹と月狼、そしていなくなっていたガウシェンが剣を合わせている。
遠目でよくわからないが、あの男の口は開いていないように見えた。

「全く。ラウル、また無理をして」

「お、お祖母さん?」

恐る恐るという風なナタの声を聞いた直後、真横から細身の刀身が、ぬっと、出てきた。

「男衆だけに任せておけないでしょう?貴方は左が使えないのだし」

元気そう、むしろ弾んだ声音に、興味本位に後ろを振り返りたくなるのをぐっと堪える。
とんでもなく元気な祖母殿だ。

「嬉しそうに言わないで……」

ぐったりしたようなナタの声に心中だけで同意した。
彼らの相手をナキュエに任せ、俺も動き続けているガウシェンの弟らの方へ向かった。


 *


どれほど同じ敵を倒し、どれほど時間は経ったのだろう。
荒くなる息をどうにか静め、辺りを見回す。

「力を示せ。女神の娘、カジュリタの御前に」

閑々とした声に呼応とするように、ぷくぷく、と地面の黒い部分が蠢く。
まだかっ、と焦る。
未だ地上から黒い傭兵は消えない。
一旦は、老人やガウシェンの弟に斬られ地に伏すが、しばらくすると何事もなかったかのように立ち上がり、再び剣を握るのだ。
腰を砕き、足を削いでもぐらぐらの体で向かってくる。

腕力に任せて剣を振るい、何度目かの敵をもう一度突き殺す。
ずぶずぶ、と嫌な音を立てて黒い肉体に沈み込む剣先に光沢はなく、もう真っ黒だ。

「ダリス!」

「しばし、お待ちを」

小さく、左の塀の方から声が聞こえた。
声に切迫感はあまりないが、かなり疲弊しているぐらいは、感じ取れた。
目を凝らすと、光丹が最後に倒した巨躯の老兵に応戦しているのが見て取れる。

くそっ、あちらの方が敵の数が多いな。

思うが早いか、俺はダリスへ走り出す。
影は元々、まともな戦闘をすることを主眼として選任されていない。
持久力、身軽さ、経験、感、忠誠心、そして何より比較的小柄な事が絶対条件となる。

「これなら、でかい奴も一人は選んでおくんだった……っ!!」

悔やむことでもないが、少なくともダリスを今回同行させたのは誤りだったかもしれない。
ダリスと黒い人間との間に割り込み、振り上げられた斧のような武器を受け止める。

「っ!!」

息を呑むダリスに下がるよう目で促し、刃がぶつかり合い激しい音を立てる相手の得物を振り払った。
巨大な剣の重みにより、ぐらり、と揺らいだ傭兵の、がら空きだった両足に思い切り切っ先を差し込み、そのまま足首から下を切り離した。
本体から外れた腕や足が動き出さないことが、せめてもの救いかもしれない。
完全に黒い血まみれの剣を振るいながら、何となく思う。

「も、申し訳――」

「下がっていろ」

短く言うと、左足首を失って塀に頭をぶつけながら崩れ落ちる男の腕を切り落とした。
動きを止めた傭兵から離れ、頭を垂れるダリスを見下ろす。

「怪我は、まだ治っていないのか」

「申し訳ございません」

無意識に溜息が出た。
気づいていたはずの光丹や蒼が何も言わなかった事に苛立ち、何より気づかなかった自分に嫌気がさす。
もう少し気をつけておくべきだったか。

「ダリス、軍営に戻れ」

「い、いえグレイ様!私はまだ!」

必死なダリスに、足手纏いだ、と言おうとした時。



ドオォォーーーーンッ。

――――と、心の臓に響く破壊音が轟き、北の塔が炎上し出した。

「!!!」

現場へ走る俺の背中に、ダリスが何か叫んでいたが、塔の瓦解音で聞こえない。
仰ぎ見た時、一瞬だが暗い空の中、赤色が塔から真っ逆様に落ちるのが見えた。

「ガウシェン!!光丹っ」

「……っ、ここです」

叫んだ声に対する返答は意外に近くからかけられた。
目を向けると、擦り傷や煉瓦破片で埃だらけの光丹が、ガウシェンの下敷きになっていた。

「あ゛ぁーー。悪ぃ……」

申し訳なさげ、ではなく不満そうに口を曲げたガウシェンが立ち上がる。
光丹はふぅーと疲れたように息を吐いた。

「アーベルトは?」

轟々と崩れゆく塔の天辺にいたのだから、逃れていなければ今頃は瓦礫の中だ。
顔の判別ができるくらいには残っていてほしい。
……できるなら、生け捕りたいが。

「あー、それな」

気まずげに視線を逸らすガウシェンには嫌な予感しかしない。
そこへ、どうやって逃れたのか全く無傷で無事の月狼が降りたち、「ふむ」と面白くなさそうに鼻を鳴らした。

「逃げられたわ。まんまとな。全く、切れる人間よ」

感心しているとも取れる発言に、俺は一瞬戦慄し、光丹へ目を向ける。
視線を合わせた奴は、嫌そうに一度だけ頷いた。

舌打ちしたくなる。
その衝動をどうにか押さえる。
ガウシェンを引き立たせ、飛び散った石の破片が飛ぶその場から離れた。

「グレイ様。液体が退きました、取り込まれていた傭兵達ですが、」

「解けよったわ。後も残さんとはさすがに手強いな」

ダリスの報告の先を引き継いだのは、いつの間にこちらに来ていたのか、後ろから現れたラウル・ディレインだ。
その後ろからぞろぞろと全員が同行し、しんがりをナキュエが務めている。

「睨むなよ、怖いねぇ」

睨んでなどいない。
反論しようとして、止める。
そんな気力も、もう残っていなかった。


 *


邸内に響き渡っていた不気味な声の木霊は、北塔の爆発と同時にぴたりと止んでいだ。
気づいたときには、辺りにはこちらの軍兵の気配音しかしない。

「蒼」

気配を感じて後ろを振り向けば、カシスに付かせていた蒼が膝付いていた。

「報告いたします」

その場にいる全員が、蒼の言葉を聞き逃すことのないよう、緊張しているのがわかる。

「侯爵邸の占領完了いたしました」

一息に言われた内容に、ナタがほぅっ、と静かに息を吐く。

「侯爵及びその妻、謀反嫌疑の貴族、待機中の傭兵、使用人は全て拘束し、別室に移し見張っております。また、 北塔に出入りしていたと見られる白いフードの男は地下で息絶えておりました」

最後の報告に、ガウシェンと老人の顔が険しくなった。
たぶん俺も同じような表情だろう。
有り得ない……実際に起こったのだから認めるしかないのだが、魔術について知り得ていそうな人間に二人も逃げられたのは、 かなりの痛手だ。


眉に力を入れた時、ふと、薄暗いはずの庭が遠くまでよく見えるのに気がついた。
空を見上げると、蒼い月が霞みはじめ、東は明るさで薄くぼやけている。

……ああ、朝が来た。

「やっと終わったぁ」

ナタが呟く。
本当だ、俺にとってはまさに悪夢だった。

「どう、なさいますか?」

蒼の声にはっとする。
そうだ。
まだ、終わっていない。まだ、終われない。

「アミュン城壁外で待機している師団の半分を州都内に入れろ。町をくまなく探索させる」

そこで息を付く。
どうやら、一度気を抜いてしまったのが悪かったらしい。
息が、気力が、続かない。

「グレイ…」

ナタの声に自分を叱咤し、見守るダリスと光丹に視線を合わせた。

「城外の監視責任者には俺が会いに行く。光丹は付いてこい、ダリス、お前は軍営に戻れ」

「御意のままに」

言い、頭を下げた光丹から少し遅れて、ダリスも「お言葉に従います」と拝した。
それに軽く頷いてから俺はようやくナタやガウシェンの方を向いた。

「あー疲れたわ。マジで」

「俺も、だ」

同意して、微妙な顔をいているナタを覗き込む。

びくりと肩を揺らしながら、今度は顔を逸らさずに俺を見返すナタの顔色は、やはり悪かった。
朝日が薄く、木々の間を通して庭の差し込んできたことで、彼女の状態の悪さが余計に明らかになる。
それは、祖父母殿やナタの弟に関しても同じだった。

「蒼。追加だ」

まだその場にとどまっていた蒼は、少なくとも俺よりは周囲に気を配れる人間だな。
何も言わず、だがその瞳を優しげに細めた俺の影に、追加命令をわざと素っ気なく下す。

「カシスに伝えろ。至急最上級の寝心地の寝所を用意しろ、ってな」

その瞬間、頬を綻ばせ、そしてくずおれたナタをしっかりと抱き留めながら。
ああ、本当に。

ようやく恐ろしく長い夜が終わったのだと、青々と雲一つなく夜を塗り替えてゆく空に思いを噛みしめた。







inserted by FC2 system