前門狼、後門は虎。壱


何故だろう。
お祖母さん達の様子を見に都を出てから、一日一回は冷や汗を掻いている気がしてきた。


「物騒なものをしまってくれませんか?」

「解りました、って言うと思うか嬢ちゃん」

「ははは、」

そりゃそうだ。
筋肉ムキムキおじさんに刃先を胸元に向けられながら、私は余裕があるわけでもないのに笑ってしまった。
この状況、もう笑いしか出てこない。

「ま、死にたくなけりゃあ今度こそ大人しくしてな」

そう言うと、おじさんは剣を鞘に戻した。
背後から、お祖母さんとヨセフの視線をビシバシ感じる。
喉元や背中に伝う汗が気持ち悪い。
疲労と焦りが、余計に神経を高ぶらせる。
黙っていればいいのに、私の口はぺらぺらと動く。

「大人しく、してなければどうなるんです?」

挑発だ。
不利な状況で、主導権を握っている人間をむやみに怒らせていいはずはないのに。
そう頭では解っているのに、押さえきれない。
案の定、目の前にいる3人の男の人達は一様に眉を顰めた。

「んだと、女っ――」

「まあ待て」

ムキムキおじさんの後ろに控えている、まだ20代っぽい人が口を歪め私に食ってかかってくる。
それを私の正面にいる比較的痩せ型のおじさんが宥めた。
そして、40代くらいのおじさんは私に向かって歯を見せ笑う。
嫌だっ、あの笑みは生理的に受け付けない。

「口答えとは。お嬢さんはどういう状況がおわかりでないらしい」

いえいえ、嫌と言うほどわかってますとも。
けれど解っていても感情を抑えられない時が、人間にはあるんです。

笑みを浮かべながら、3人の中でリーダー的存在らしい痩せたおじさんは私にゆっくりと近づいてくる。
青い無精髭が不健康な印象を与える、それさえ私の神経を逆なでする。
けれど、もう少しでおじさんの指が私の頬に触れそうだった時、 突然ムキムキマッチョなおじさんが間に入ってきた。

「こいつぁ、ちょっと痛い目見てもらうしかないでしょ」

言うが早いか、ずいっと顔を近づける。
腕を捕まれた事に気づいた時、私は床に這いつくばっていて、左肩に激痛が走った。

「ぐっ!……!!」

反射的に閉じた口から呻きが漏れる。

ち、ぃっくしょう。肩外された!!

息を呑むような音が後ろから聞こえて、振り返りたかったけれどどうにか我慢する。
お祖母さんはともかく、荒事に慣れていないヨセフは、きっと必死で唇を噛んでいるだろうから。 その努力を邪魔しちゃいけない。
後で褒めてあげよう。
そんなことを頭の本当に片隅で考えながら、未だ私の腕を掴み真上から見下ろすおじさんにぎろりと目を向ける。
床に押さえつけられた顔をぐっと上げ、目前にいるおじさんを射殺す勢いで睨む。
痛みより、屈辱と怒りでどうにかなってしまいそうだ。

「恐いこわい、懲りてねぇな嬢ちゃん」

マッチョなおじさんは全く悪びれない笑みを、私に見せた。
その顔で、さらに私の頭に血が上る。
その時、ふいにおじさんは笑顔を消すと、口を開けぽつりと私の耳に呟いた。
おじさんの顔は、ちょうど2人の傭兵からも、お祖母さん達からも見えない絶妙な位置ある。

「え」

私が聞き返す前に、鼻先付きあわせていたマッチョおじさんは、すっと私から離れた。
その瞬間、再び左の肩に鋭い痛みが走る。
歯を食いしばって、肩が戻る痛みとその後の鈍痛に耐えた。

「よっと。これくらいすりゃ、もう刃向かおうとは思わないでしょ。隊長さん」

「は?あ、ああ。そうだな」

起きた内容に反比例して、さらりと数十秒で行われたことに痩せたおじさんはついて来れていない。
それでも、隊長――ってことはやっぱりリーダーなんだ、その威厳を保ちたいのか、 やたらと重さを強調した声でマッチョおじさんに同意すると、少し残念そうにしながらも、 もう一人の若い兵を連れて部屋から出ていった。

「二度と脱出を図ろうなどとしないことだ。次は、――私がおしおきをしよう」

もちろん、私への釘と脅しも忘れずに。
最後に扉を出たマッチョおじさんは、戸を閉める一瞬に幽かに笑いを滲ませ、ぱくぱくと口を開けた。
また、…後で。
そう、私には聞こえた気がした。


ようやく過ぎ去った今夜二度目の修羅場に、ほうっと息を付く。

「姉さん大丈夫なの、それ」

後ろからヨセフに呆れを含んだ声をかけられる。
平静を装うとしているんだろうけれど、その声はまだ残る恐怖と安堵を隠せていない。

「あー、うん。たぶん」

さすがに、これだけの痛みを無視して笑うことはできない。
苦笑で誤魔化してみるけれど、騙されてくれなかった。

「こっちへいらっしゃい。肩、動かしちゃ駄目よ」

「……はい」

大人しく言われた通り、小部屋に一つだけ置かれた古びたベッドに近づく。
その上に座っている二人は一様に疲労の色が濃厚で、 その顔を見るといったんは落ち着き掛けていた怒りがまた湧いてくる。

「ヨセフ、横になってなよ。お祖母さんも」

私の言葉に、ヨセフは途端に機嫌が悪くなり、ふくれっ面をした。
お祖母さんが困ったように笑う。

「大丈夫、そこまで無体をされたわけじゃないのよ」

嘘だ、と心中で反駁する。
お祖母さんのお気に入りのドレスは黒ずんで擦り切れて、古着を雑巾にしたように色をしている。
半年前まで光沢ある若草色だったなんて、思いたくない。
嘘だ嘘だっ!
そう言って慰めるように笑う祖母を困らせそうになる。

「姉さん」

ヨセフの声ではっと我に返る。
同時に、頬を伝う熱にも気づいた。

「突っ立ってないでさ、こっち来なよ」

途方に暮れた表情でヨセフは私を手招き、ベッドの真ん中に座らせる。
その様子にまた涙が溢れ、こぼれ落ちる。

「あー顔ぐちゃぐちゃ。姉さんも年頃なんだからさ、もっと綺麗に泣けないかな」

「ヨセフ」

お祖母さんがヨセフを窘め、ぽんぽんと私の背を軽く叩く。
その手が温かくて、ばつが悪そうにそっぽを向きながら小さな声で謝るヨセフがおかしくて、 私は顔をくしゃくしゃにして笑って、泣いた。

 *

私達は結局侯爵邸に逆戻りしてしまった。

州都を囲む壁の外側でアーベルトさんに捕まって、彼が連れてきた傭兵達に周りを囲まれた。
ユー兄は戦う意欲を見せたけれど、お祖父さんがそれを止めた。

顔には出してなかったけれど、3人とも限界に近かった。
抵抗するのなら、どうしても人数の関係で相手の隙をつく強行突破になってしまう。
お祖父さん達は戦力に入れられない状況下、私とユー兄で20人以上の相手を、 しかも背後の3人を気にしながら戦うというのはきつい。
ユー兄もそれを解ってて、渋々剣を捨てた。

けれど、お祖父さんが戦闘を止めさせた理由はそれだけじゃなかった。
お祖父さんとユー兄は私達と離され、別の場所に連れて行かれてしまったのだけど、その、傭兵に引っ立てられる直前に、お祖父さんが言ったのだ。

『気をつけろ。あやつは術を使う』

その言葉が頭から離れない。
術って魔術のことだろうか、とか。
どうしてそれをお祖父さんが知ってるの、だとか。
疑問は後から後から湧いてきて、きりがない。
でも、不明な事柄全てを、感情任せに祖母に問いただすことはできなかった。


「ナーシャ、落ち着いた?」

「……うん」

ぐすぐす、と鼻を啜り右手で強く涙を拭いた。
左腕はだらりとさせているように見えて、必要以上に力が入り無理に伸ばしている。
お祖母さんはあえてそこには触れず、別のことを聞いてきた。

「さっきの大柄な人、何て言っていたの?」

「え」

気づかれてたの!?
っていうより、お祖母さんよくあの体勢で喋ってるなんて解ったな。
ヨセフも祖母の方をむき目を丸くしている。
その気持ちがすごくよく分かった。
私達の視線を受けて、祖母はにっこりと少女の笑みを見せた。

「うふふ。あなた達、私を誰だと思っているの」

「「……」」

そうでした、お祖父さんのお嫁さんでした。
なんだか、とてつもなく恐いことを再確認してしまった。

私とヨセフは目を合わせ、胸の中で深々と溜め息をつく。
ときたま祖母と母は、血が繋がってるんじゃ、と思うくらい言動が似ていたりする。
黙ってしまった私達に、お祖母さんはちょっと首を傾げる。

「どうしたの?」

「いえ、……何でもないです」

お祖母さんの言葉に応える気力もどこかに飛んでしまった。
けれど当の本人はしつこい、もとい粘り強い笑顔で、続きを急かしてくる。

「それで?何て言ったの?筋骨隆々の兵士、随分顔を近づけていたけれど」

「べ、別に何もっ。て、何か楽しそう?だね、お祖母さん」

にっこにこと満面笑顔のお祖母さんが私をなま暖かい目で見つめている。
すごく気になるんですが、何を妄想してるのか。

「大したことじゃ、ないよ。たぶん」

そう、核心的な何かを言われた訳じゃない。
ただ意外といえば意外で、思わずマッチョおじさんの焦げ茶の瞳を至近距離で見返してしまった。
あの人はどうしてあの時――――。

「また後で、って」

「姉さん、そんなこと言われたの?」

ヨセフは胡散臭そうに、私とおじさん達が出ていった扉を見る。

「変な意味じゃなくて!……きっと、夜中の見張りに来るって事、だと思う」

「それ、十分変な意味だよ姉さん。それくらい解るだろう?」

ヨセフの私を見る目が、疑惑より哀れみの色を強くした気がする、全く失礼な。
お祖母さんが笑いながら、ヨセフを窘めていた。

違う、そうじゃない。
痩せた、隊長と呼ばれていた男なら、ヨセフの言うように下卑た意味だったかもしれないけれど。
あのおじさんは違うと思った。
その判断の理由が、おじさんが持っていた雰囲気からなのか、胸元にちらりと見えた紋章なのか、 言葉なのかは解らないが。

『嬢ちゃん、いい奴つけてもらってるなぁ。余程気に入ったか』

囁かれた言葉の意味を問う前に、おじさんは目を逸らしてまった。
付けてもらってる。気に入る。
……誰が。
おじさんの言葉の主語がわからない。

俯き、考え込む私の肩にお祖母さんがそっと手を置いた。

「ナーシャ、」

「ん?」

「最初から話してごらんなさい」

「……」

「私もラウルも、助けに来てくれるならあなたかガウシェンだと思っていたけれど。話して? 都からザインまで何があったのか、誰と会ったのか」

「お祖母さん……」

期待してくれていたのは嬉しいけれど、そこにユー兄が入ってないのは何故。


 *


もう夜だ。
いつ傭兵が来るかも何が起こるかもわからないから、全てを話す時間はなかった。
徹底的にいらない箇所を省いて、グレイに会ってガウ兄に会って作戦で私だけアミュンに来たことを話す。
途中、お祖母さんに茶々を入れられたけれど、それ以外は至って平坦に話し終え、ほっと息をつく。

「さすがね、我が家の嫁はそうでなくっちゃ!」

お祖母さんは何故かおかしな所で興奮していた。
お父さんお母さんの奇行を「さすが!」なんて言わないでほしい。 彼らの下で19年間生きてきた自分がすごく悲しくなる。

「それにグレイと言ったかしら、スレイル軍の人。 ナーシャ、あの格好のあなたを女の子だなんて分かる人、貴重よ。良かったわね!」

さり気なく貶められてますか、私。
良かったわね、と言われても全然嬉しくない。
貴重って、私だってそこまで男っぽいはずはない。……と、思いたい。

「おばあちゃん。面白くて、姉さんを弄りたいのはわかるけど」

いじっ、ヨセフそれどういう意味!?
ヨセフの頬を睨むけれど、本人はまったく意に介さずお祖母さんの方を向いている。

「今はどうやってここを出るかが大事だよ」

「そうねぇ。けれど、次は本当に用心しないとならないでしょうねぇ」

どうしたものか、と祖母は頬に手をつき考え込む。
確かに。
すでに二度脱出しようとして捕まったし。
次は、覚悟しとけよ、的なことを言われてしまったし。
隊長らしい男には、お仕置きされてしまうらしい。

「絶っっっ対に嫌!」

「は?」

「え」

ヨセフが目をぱちくりとさせ、私を見ていた。

「あ、ははは」

やばいな、腹立つあまり軽く周りが見えなくなった。
大丈夫、今度は成功させる。三度目の正直、とも言うし。
ぐっ、と左手の調子を確認する。
本当は痛い、まだそっとしておきたい。けれど、今すぐここを出なければいけない。
残っていればいるほど、死の危険は確実に高まってゆくのだ。

「どうしましょうねー、力を借りましょうか」

「力をかりる?」

俯きながら喋る祖母の口から出た言葉に、私は首を傾げる。
助力を頼むにも、ユー兄もお祖父さんもどこかに連れて行かれ、人気のない北棟でいったい誰に頼るんだろう。

ここは2階だ。
地下ではない分、逃げやすいのかもしれないけれど、今までのところ、いずれも窓を蹴破る前に発見され捕まっている。
ちなみに私達が押し込められている小部屋に窓はない。
室内にあるものと言えば、小さなベッドと椅子が一脚、蝋燭が3本だけだ。

「駄目で元々よ。だからこれは最終手段ね」

お祖母さんは意味深に私を見て、にっこりと笑った。
私としては、何の事やらさっぱりだ。

「まず決めるのなら、脱出するかラウル達を見つけだすか。どちらにするか、ね」

「あ、そうか」

私達が逃げ切れても、お祖父さん達が酷い目に合わされては意味がない。
うーん、と頭を悩ます。
部屋は静かだった、余計な音は一切消し去られてしまったかのように。


突然、コーンとまっすぐな音が響いた。
びくり、と顔を上げ、扉を振り向く。
音はこの階全体に響いたようだった、いやむしろ――――。

「2階が音を出したようだったわね」

「お祖母さん、」

お祖母さんは落ち着き払っていた。
祖母はガウ兄に似ている。ん?ちがうちがう、ガウ兄が祖母に似ている。祖父にも。
ガウ兄への畏怖は、そのまま私が祖父母に感じるものでもある。

コーン、ともう一度、次はすぐ側で聞こえた。
扉の向こうだ。

「お客さんかしら」

ここまできてもお祖母さんは相変わらず暢気だ。
私は臨戦態勢に入る。
誰だろう。マッチョおじさん、隊長っていう人、あの気の短そうな若人?

「失礼」

けれど、そのあては見事に外れた。
横でヨセフの息を呑む音が聞こえる。
私も目を見開いて、扉前に立つ人間を凝視した。

「ご気分はいかがですか。エルミナ様」

感情の見えない顔で、けれど少し寂しそうな雰囲気を纏った人、アーベルトさんが立っていた。


 *


彼と、私達は数秒見つめ合った。

「ええ。悪くはありませんよ。アーベルト」

穏やかな声音で、にこやかに祖母は応えた。

「そうですか」

ゆっくり息を吐いたアーベルトさんが部屋へ入ってくる。
私は動けなかった。
その後ろから、40代頃の黄土色髪を持つ男が入ってきたから。

「まあ、リルバス殿。お久しぶりですわ」

そつなく応える祖母がなんだか恐い。
アルノー男爵との時も思ったけれど、やっぱり私って役者不足だ。
気づかれないよう唇を噛んで、現ザイン侯爵を見つめる。

冷たい瞳をした人だった。
この人には今ここで初めて会う。
昔この邸を訪れた時は確か留学しているとか言っていたはず。場所はどこだったか忘れたけれど。

どうして今、こんなことが気になるんだろう。
留学先なんて関係がないはずだ。
それなのに、何か、忘れている気がする。
昨日と今日で態度が豹変したアーベルトさんに、今頃になって反乱を起こそうとする侯爵。
二人のおかしな行動の鍵を握る、なにか――――。

「お久しぶりです。ショーン公爵嬢」

「いやだ、私はもう嬢、だなんて呼ばれる年ではないわ」

わざわざ祖母を旧家で呼ぶ理由は何。
爵位を口に出すことで馬鹿にされているような気がする。
祖母が笑いながら手を振り否定する。
しかしザイン侯爵はそれを全く視界に入れず、アーベルトさんに何かを指示していた。

「承知しました」

アーベルトさんはそう言って頭を下げると、ふいにベッドに近づいてきた。
無表情は変わらない。
ただ、少し悲しい気が濃くなったような感じだ。

「あの、」

「失礼いたします」

私の目の前へ来ると、アーベルトさんは同じように一礼し、がしっと私の左肩を掴んだ。
ズキズキとした疼きが腕に走る。
目をそばめ、一瞬殺した息をゆっくりと口から吐き出す。
痛い、張りつめていたとはいえ、唐突だったから辛かった。

「っはなせ――」

「ヨセフ!!!」

怒鳴りつけ、ヨセフの声を止める。
人畜無害そうな顔をしているからって、怒らせちゃいけない。
今、私達の心臓を――命を握っているのはこの人達だ。
悔しそうに唇を噛んで、ヨセフがアーベルトさんを睨みつけた。
アーベルトさんはというと、ヨセフの様子なんて全く頓着せず、じっと私を見る。

「私が、何か」

堪えきれず尋ねると、アーベルトさんは今気づいたと言うように少し瞬き、そして静かに首を振った。

「いえ。……痛めておられるのですね」

「どの口が、」

「ヨセフ黙って!」

必死に声を荒げないようにヨセフを窘める。
黙ってやりとりを見ていたお祖母さんは首を巡らし、扉の前に立つ侯爵を見据えた。

「何か?」

「リルバス殿、何がお望み?私、家でちょっとした菜園を営んでいるんだけれど、 そろそろ世話をしなきゃ雑草が生い茂ってしまうのよ」

突然、家庭菜園事情を話し出した祖母のせいで、部屋に嫌な沈黙が落ちる。
お祖母さん、家に帰りたいって素直に言えばいいんじゃないの?
どうしてわざわざ、そんな遠回しに……。

「害虫駆除やら家の掃除は、ラエルとアサネさんがしてくれていると思うのだけれど。 やっぱり愛着のある庭だもの、収穫くらい自分の手でしたいでしょう?」

……ひょっとしてそっちが本音っ!!?
庭いじりがしたいだけっ、というかお祖父さんとかユー兄の事は無視ですか!?
しかもラエルって犬だよ。犬がどうやって害虫駆除や掃除をするの。
菜園の手入れに古い邸の掃除、ご近所付き合い、他色々。アサネさん一人じゃ家が狭くたって限界がある。

ああ、だめだ。
城を出てから、脳内ツッコミも過剰になってる気がする。
考えに対して周りの反応がない、って虚しいよね。

などと、私がこれまた脳内で愚痴を垂れていた間に、 小部屋はいつの間にやら恐ろしく険悪な雰囲気に包まれていた。
理由はさっぱり不明。
ヨセフを見ても、アーベルトさんを見ても、そして侯爵に至っては眉間に千尋の谷のごとき縦皺を刻みながら、 みんな私の右隣を見ていた。
お祖母さんだけは、にこにこと人の良さそうな笑みを浮かべ侯爵を見ていた。
その瞬間、ドヨリと、また空気が澱んで暗くなる。
アーベルトさんの腕は既に私から離れていた。

「…………」

たった数秒間で何があったんでしょうか。
誰か教えて。
私の疑問などお構いなしに、お祖母さんは口を開く。
威厳たっぷりに、それ以上に茶目っ気たっぷりに言われた言葉を聞いた刹那、私は死ぬと思った。

「あら、聞こえているかしら。もう一度、言うわね。 帰りたいのでお暇するわリルバス殿、それと反抗期もそろそろ卒業しなくては駄目よ」


「…………」

沈黙が痛いです。

お祖母さんの言葉には、私達だけじゃなく、言われた側の侯爵さえも黙らせる力があったらしい。
部屋には蝋燭の燃える音しかしない。
嵐の前の静けさ、ってこういう事を言うんだろうか。

「はっ、何を。…馬鹿馬鹿しいっ!」

声を荒げて侯爵は否定を口にする。
室内に響くように充満した苦みのある声に、ヨセフはびくりと肩を揺らした。
アーベルトさんとお祖母さんは微動だにしない。

「反抗期?反抗期だと……!巫山戯るのもいい加減にしていただこう!!」

「あら。私は巫山戯てなど――」

「その態度こそ何よりの証だろうっ!!」

顔を歪め詰め寄ってくる侯爵を、祖母はベッドに座りながら見つめていた。

どうして。
なんでそんな素っ気ない顔をするんだろう、もっと侯爵を怒らせるだけなのに。
焦りながら侯爵を見ると、何故か侯爵と一瞬目があった。
えっ、と思って観察する。

そして気づいた。

「――侯爵」

この人、一度もお祖母さんの目を見ていない。

私の声にアーベルトさんが瞬きほどの間反応を見せ、またすぐに無感動な表情に戻る。
お祖母さんは目をぱちくりとさせ私を見た。
息を吸い、呼吸を整え侯爵を見据える。
彼は忌々しそうに私を見ていた。

「巫山戯ていたらどうするんですか?斬りますか、後ろの方達を使って」

「あら、」

「姉さん…?」

声を上げた両隣の二人が私に歯止めをかけようとするけれど、無理矢理言葉を押し出した。

「入ってきてください。扉の前でこそこそだなんて、まるでチンピラです」

嘲って笑った途端、ガタリッという音とともに乱暴に扉が開いた。
入ってきたのは。
よしっ予想的中!
マッチョおじさんと痩せた隊長だった。

「っ誰が入れと言った!」

怒鳴り二人を睨み据えた侯爵だけれど、マッチョおじさんはそれ以上に恐い顔をしている。
アーベルトさんがおじさん達と侯爵との間に入ろうとすると、すかさずマッチョおじさんが足を踏み出し、 アーベルトさんが道を塞ぐ前に私の前へ来た。

「姉さっ――」

「おい嬢ちゃん。随分好き放題言ってくれるねぇ」

「本当のことでしょう」

その瞬間、襟を掴まれぐいっと引き寄せられる。
ヨセフの叫びが後ろで聞こえるけれど、それに応える余裕もなく、目前の茶の目を凝視する。
ズキリ、と痛みが走った左腕を動かそうにも、しっかりと握られて身動きが取れない。
激痛に歪む表情を押さえ込み、マッチョおじさんを睨む。

「まったく。恐いもの知らずな嬢ちゃんだ」

「それはどうも」

応えを返したのは、侯爵に背を向けるおじさんの顔が、軟らかく弧を描いたから。
お祖母さんもきっとこれで気づいたはず。

「左肩だけじゃ足りなかった、てか。それじゃあ、仕方ないよなぁ!!」

大声が鼓膜を震わせ、風を切る音が耳に響く。
打ち付けられた背中は、おじさんの計らいか遠慮か分からないけれど痛みはあまり感じない。
侯爵とアーベルトさんの間を抜け、痩せ隊長と扉との、中間の壁に私を叩きつけた張本人は、 にんやりと器用に顔半分だけ笑うと、ぐっと私に顔を近づけた。

「まじで気に入られてたぜ。結構な殺気だったからな」

小声で話し、はははっ、とおじさんは喉の奥の方でだけ笑う。
詰め寄られている図、を意識してか右から飛んでくる拳。 それに大人しく殴られながら、ぼんやりとでかすぎるおじさんの顔を見る。

殺気?
……何の話かさっぱりです。
それより私はおじさんとの距離の方が気になる。
近くない?
ねぇ、おじさん。私一応適齢期というやつなので、異性との接触って緊張するんですが。
その辺考えてますか。

「北と南の棟を繋ぐ回廊の上に部屋がある。扉出て、左壁沿っていけば扉があるはずだ」

回廊の、上。
一つ一つが無駄に大きなアーチだとは思ったけれど、さして気にとめていなかった。
あそこに部屋がある?じゃあ、ユー兄達もそこに……。

その時ふいに外の声が聞こえた。

「貴様!私の命の逆らうつもりか!!?」

「い、いいえ滅相もない。おい、お前っ仕置きはもういい!下がれ!」

侯爵の叱声に、その剣幕に怯んだ痩せ隊長の金切り声。
なんで気づかなかったんだろう、のろのろしている暇はないんだ。
お祖母さん――――。
マッチョおじさんの肩越しに覗いた柔らかい茶髪に声を出さず呼びかける。
ゆるく微笑んだ祖母の顔は、仕方ないわね、と言っていた。

「うるさいなぁ」

地を這わせるように出した低めの声に、痩せ隊長はぴたりと口を閉じた。
侯爵は眉を寄せ私を見る。

「他人に命令するしかできないお坊ちゃまが!腰の剣は飾り!?」

「なっ、貴様ぁ!!!」

「このアマッ!」

お決まりのように侯爵が逆上し、それに合わせておじさんが切れた。
にんやり、と私の額の前でマッチョおじさんは口をあげる。
いいんですけど、おじさんやっぱり距離近いよっ!わざと!?

なんだか腹が立ったので、思いきり足を振り、おじさんの脇腹を蹴り上げた。
おじさんは、ついでとばかりに痩せ隊長を道連れに、ドッと真横に倒れる。
広がった視界の隅でアーベルトさんが僅かに表情を歪めた。







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