昼間とあまり変わらず人通りの多い街道から一筋逸れた、民家が立ち並ぶ路地を、音も立てずに走りぬける。
追ってくる者はいない。
うまく巻けたか、と速度を弛めた瞬間、背後から物音がし、少し慌てて路を曲がる。
終わりそうでなかなか終わらない鬼ごっこだ。
*
宵を過ぎても、タバには光が満ちていた。
蝋燭のささやかな明かり、たいまつは赤々と燃え上がり周囲を照らし出している。
驚いたのは、この宿場町の歓楽街に翠碧軟石が埋め込まれていたことだ。
70年ほど前に、リシュア国の研究者が発見したというこの石は、昼間は黒ずんだ深緑色に見えるが、
夜になると途端に青々と輝きだす。
運の悪いことに、2つの月まで、皓々と地上を照らしている。
その光が邪魔だと思うのは、真っ当なことを考えていない人間の証拠だ。
残念ながら、今現在俺もそのなかの一人に入るのだが。
『ちっ、なんでも明るくすりゃいいってもんじゃねんだよ』
昨晩、俺の前を走っていた男は、そう言い盛大に舌打ちしていた。
事情を知らぬ者が聞けば、さぞかし眉を顰め、下手をすれば町の警護軍への通報ものだ。
口に出すのを憚る内容を、さらりと言いのけた男とともに、俺は月のない夜に紛れ、西を目指したのだった。
今日は一人だ。
その選択が、吉と出るか凶と出るか。
神などという不確かな存在に祈る事はしないが、悪手に転んでほしくはない。
十字に交わる路から街道を覗くと、大路はますます賑わいを増し、
暗い中でも目立つ色を着た女達が客引きをしている。
夜の顔を見せ始めたタバの町を尻目に、俺達は人目を避け疾走する。
昨日の昼間、宿の主人の情報を元に俺達はこれから数日の大まかな予定を立てた。
ここが本拠地であるのなら、適当に騒ぎを起こし馬で州都入り、
という当初の作戦をそのまま実行することはできない。
その作戦は、タバに警備軍以外の主立った戦力がないこと、が大前提となっている。
反乱軍の大部分が集中している場所で深く考えず騒ぎなど起こせば、一瞬にして見つかり、逃げるまもなく捕まるのがオチだ。
だからこそ、事前に計画を練ることが肝要。
……なのだが。
『ま、なるようになるだろ。んな深刻に考えんなよ、臨機応変って言うだろ』
思い出すだけでも溜め息がこぼれそうになる。
言い放った男は、俺と同じようにこの眠らぬ町のどこかを疾駆しているはずだ。
それにしても、暢気にその後階下で茶を啜っていたガウシェンも、反論する気すら失せ、
なるようになれと思考を放棄した俺も、もうどうしようもない。
三日という、短い間に俺も随分毒されたらしい。
粗雑、鈍感、無神経を地でいっていそうな男のせいか、それとも彼女に会ったからなのか。
*
「ここか、」
奇しくも昨日、この場を訪れた時にあの男が漏らした言葉と、同じ音を発してしまった。
なんとなくばつが悪く、眉間に力が溜まる。
俺は昨日も偵察に来、ぐるりと回った邸の塀を見上げる。
タバの西の端、ミシュディプエ子爵とやらの邸は町と平原の境界線に建っている。
正門は街道に面しているが、敷地が広いので西端の北一帯をほぼ邸の塀が続く。
南を試しの森、他をどこまでも続きそうな牧草地帯に囲まれた町は、その昔、
不落の要塞として名をはせた時期があるらしい。
『この森なんて絶対通らない』
言い切ったガウシェンの言葉は、大体において真実なのだろう。
イシュタムの森を知る誰もが、あの森に分け入ることを拒むだろうし、俺のように“試しの森”
の意味を知らぬ人間が入ったとしても、無事出てくる可能性は一割以下だ。
そのような危険を冒し、ある意味タバが最も無防備な南から攻める将はまずいない。
あの森は、そういう場所なのだ。
ここにいる乱の首謀者達も、その不落の要塞に己が野望を託したのだろうか。
高い塀と、その遙か頭上に見える一対の欠け月を睨む。
だが、残念だ。
ここでその夢も終わる。
お前達は都へ攻め上ることはできない、させない。
そう約したのだから、俺は――――。
足にぐっと力を入れる。
溜めた力を解放した時、俺の体は宙に浮いていた。
そのまま、音を立てず塀の上に飛び乗る。
幅数センチの塀の上から邸を見渡す、所々篝火が焚かれているが、人の姿はあまり見えない。
俺は一人口角を上げた。
傭兵達は、昼間歓楽街で起きた子爵子息らの集団気絶事件にかり出されている。
もしくは、今まさしく街道近くで騒ぎを起こしているガウシェンの方だろうか。
邸が空だとは思わない。
だが人員はだいぶ減っているようだから、この陽動作戦はとりあえず成功したと言えるだろう。
邸の裏庭の端に知った顔を見つけると、俺は迷うことなく塀を飛び降りた。
昨日のこと。
昼過ぎ、街道沿いの宿屋でガウシェンを問いただした時、思いがけなくやつは破顔した。
笑って、急激に本気の顔になると、何故訊くのか尋ねてきた。
そこまで解りながら、これ以上を訊く必要があるのか、と。
疚しい胸の底まで見透かすような濃紅の目で俺を見つめ、そしてふいっと横を向いた。
『言わねぇ』
子どものように口を尖らせて言ったガウシェンは、その後何もなかったように仕入れた情報に自身の意見を織り交ぜて、
俺に話して聞かせた。
俺は、何を言うべきかわからず、もらった飴玉を嘗めながら、身にはなる話を聞いた。
変だと、と思う。
いや、だれが考えてもおかしいだろう。
何故一緒に、などは考えても今更なので省くが、相手の正体を薄々勘づいていながら知らぬ振りを通すのは、
敵だと知りあえて行動をともにするより、よほど不自然なことではないのか。
結局、理解できないあの男の思考と、段々と狂っていく俺の感情を今は殺し、邸の裏口へ回る。
カチャリ、と取っ手を回すとギッと鈍い音をたてて扉が開く。
そこからすっと体を忍び込ませた。
扉は炊事場に続いていた。
誰もおらず、水だけが時折こぼれ落ちているそこを通り抜け、邸の廊下を早足で歩く。
ガウシェンが成り上がりと蔑視して言ったのも頷ける。
子爵の邸は、至る所に金銀の装飾が施され、ほとんどの燭台には何らかの宝石が埋め込まれている有様だった。
薄暗い中でこれだけ目に付くのだから、昼間はさらに煌びやかなはずだ。
金はかかっているが、趣味は悪い。
論争にまでなったというから、よほど阿漕な稼ぎ方をして建てた邸なのだろう。
昼間、手刀を叩き込んだ金髪の男が浮かぶ。
自身の身の危険など考えたことのなさそうな顔をしていた。
武術の経験など皆無だろう、俺が真っ正面から歩いていっても一向に反応を返さなかった。
一般的にそれは何より幸福な生き方だ。…が、あの男にとっては違う。
そのことを哀れむつもりもないが。
そこまでの優しさを俺は持てない。
かの人なら、或いは彼女なら憐憫の情を向けるだろうか。
たとえ、それが、余計にあの男の無駄な矜持を傷付けると分かっていても。
不毛な考えを追い払うように、軽く頭を振る。
廊下の角から微かに人の声がして、素早く柱の影に隠れる。
足はいつの間にか傭兵達の居住区にたどり着いていたらしい。
慎重に明かりの方へ顔を覗かせる、屈強な男が二人なにやら話し込んでいる。
そのうち一人がこちらへ歩いてくる、俺は可能な限り気配を殺す。
そっと剣の柄に手を置く、倒せない相手ではないがここで騒ぎを起こすのは得策ではない。
蝋燭をもった男は俺に気づかず、そのまま通り過ぎた。
再び明かりに目を向けると、残された男は自身の蝋燭を持ち、左角の奥へ歩き出した。
その行動に少し眉に力が入る。
奇妙だ、影の報告では兵宿舎は右側だったはず。
見回りにしても数が少ない、何よりあちらは確か侯爵達のいる場所だ。
神経を尖らせ柱から出ると、十分距離を置きながら男を追跡する。
揺れる灯りを持っているため暗闇でも見失うことはない。
カチャリカチャリと腰の剣を鳴らしながら、男は庭に出、回廊を進み、子爵らの寝室の棟を横切り、
その先の薄暗い一角へ姿を消した。
どうやらどこかの部屋へ入ったようだ。
庭を確認し、回廊を反対側へ駆ける。
男が消えた一角は、他と違い燭台が灯されておらず、奥まっているため月の光も届いていない。
人は疚しい場所を暗くし、隠そうとする。
逆効果だと分かっていても。
ここに、何かがあるのだ。
侯爵達にとって他に見せてはいけない何かが。
その時、わずかだが風を切る音がした。
「なんだ」
振り向かず尋ねる。
背後に降り立った影が微かに動く気配がした。
律儀だな、と変に感心する。
見ていないところまで、拝礼するほどの価値が俺にあるとは、あまり思わないのだが。
「ディレインが陽動を終え、こちらへ向かっております。
この先の部屋は地下通路になっており、街道を挟み南の倉庫につくようです。
倉庫については、まだ調査が終わっておりません」
影は素早く話し終え、俺の返事を待つ。
蒼い月を見ると、西へ傾いていた。もう日付は変わったらしい。
「兵は」
「タバより北方3キロにて一連隊が待機しております」
間髪入れず答える影の返答に少し考える。
第一師団所属の一番連隊の事を、俗に一連隊と呼ぶ。皇族警護、貴族の監視から実際の戦闘までこなすスレイル軍の精鋭部隊だ。
国民の信頼も厚く親しみを込めてそう呼ばれるが、大半は名前が長ったらしいからだろう。
また、特殊な任務を多く引き受ける彼らは、皇帝印なしでも動く唯一の軍だ。
おおかた城を出たきり連絡一つ寄こさない俺に、従兄が痺れを切らしたのだろう。
アミュンへは帝都から正規軍が進行しているはずだ。
俺は軽く頷いた。
「動かせ、東からタバを包囲しろ」
「御意のままに」
言い、影の気配は消えた。
俺は振り返らず、傭兵が入った扉を見つめる。
思案したのは一瞬だった。
くるりと進路を変える。
南、傭兵宿舎の方へ全速で走る。
足音も何も気にせず走っているので、次々と見回りの兵が声を上げた。
燭台の火が揺らめいて、音を聞きつけて中庭に人が集まってくる。
その中を縫うように、俺は南へ走る。
「てめっ!!」
一人が大直刀を振り上げた。
自然に口角が上がる、腰の剣に手を掛ける。
得物を振り下ろした音が聞こえた瞬間、俺は男の懐から利き腕に向かって剣を切りあげた。
プシュッと吹き出すような音がし、ついで男のくぐもったうなり声が後ろから聞こえる。
俺は頓着せず、目の前にいる大男の右太股に剣を差し込む。
群がってくる傭兵は、予想通り少なかった。
集められたうち、かなりの数がガウシェン側に向かったことを少し申し訳なく思いながら、街道に出ようと進む。
「うおぉぉおおーーっ!!!」
「何をしているっ、さっさと殺せ!」
傭兵の雄叫びの合間に、明らかに異質な甲高い声が入る。
振り向かなくても分かる、邸にいる貴族が起きてきたのだ。
突進しながら、兵の足に剣を突き刺し、抜いて、薙ぎ払う。
倒れた兵の血が服に、少し髪に飛び散る。
走りながら剣についた血を払う。
それでも、次から次へと立ちはだかる男達の血で汚れる。
「退け!!」
俺の発した殺気に相手が怯んだ隙に剣を振り下ろし、左で剣を握る男を斬りつけ、蹴りを入れる。
だが、肩から血を流す男は俺の予想に反し、まだ倒れない。
ぎろり、と。殺意の籠もった目をすると、長剣を右手に持ちかえ、再び剣を高く上げる。
しかし男の剣が俺に届く前に、左利きの男の胸からずぶりと反り返った剣先が現れ、男はどっと地面に倒れた。
「派手にやってんなぁ、予定違うじゃねぇか」
倒れた男の後ろには、不自然に右袖が風に舞っている男が悠然と立っていた。
男の鈍い朱髪が四方の炎に照らされ、異様なほど赤く輝いて見える。
「――ガウシェン」
そろそろ来る頃だとは思っていた、が。
やはりこの男は侮れない、身のこなしといい気配の消し方といい。
最初に出会った時と同じく、姿が見えるまで気づかなかった。
「南へ行く、街道沿いの倉庫だ」
端的に言うと、それだけで検討はついたらしい。
にぃっと口の端を上げると、ガウシェンは湾曲した長剣を持ち直し、俺の背後で地面に伏し唸っている連中を一瞥して、
向きを変える。
その時、さきほど地面に倒れた男が、呻きながら言葉を発する。
「ガウ、シェンだと……、」
その声にガウシェンはちらりと、自らが切り倒した男を見る。
そしてわずかに眉に皺を作ると、苦い表情のまま口を開いた。
「見た顔だな。てめぇ、どこの隊だ」
「だい、一師団…い三連隊の、17小隊、隊ちょうっ」
歯を食いしばり、痛みに耐えながら話す男を、ガウシェンは見下ろしている。
背後に、また周りにいる兵達が動きを止めたように、庭は静まっていく。
さきほどの喧噪が嘘のようだ。
「何故っ、あ、あんたがスレイルにっ」
「殺せ!全て始末しろっ、かっかねを!金に見合う働きをしろ!」
「与するのか、ってか」
ガウシェンは吐き捨てるように、言う。
後ろでぎゃーぎゃー叫んでいるのは子爵だろうか。
その声で、周りの傭兵が戸惑いながらも剣を振り上げ向かってくる。
そいつらの足を斬り腹を蹴飛ばしながら、ガウシェンは左利きの男に向かい、声を張り上げた。
「んな事自分で考えやがれ!てめぇらに矜持はねぇのかっ!!」
「早く殺せ!クズ共がっ雇ってやった恩を仇で返す気――」
「うるせぇっ!!!」
殺せ殺せ、と叫ぶ甲高い声は、ガウシェンの一喝でぴたりと止んだ。
凄まじい怒声に誰も動けない中、ガウシェンはもう一度、倒れた男をちらりと見た後、
立ちふさがる男達を蹴り倒し道を作る。
「行くぞ」
「ああ」
俺が答えると同時に、ガウシェンは走り出した。
俺は一度だけ後ろを振り向き、傭兵達の間にわずかに見える、派手なナイトガウンを着た中背の男を目におさめると、
同じく走り出す。
もはや行く手を阻む者はおらず、追ってくる者もいなかった。
*
南向きの、街道に面した正面門を出ると、すぐに古びた倉庫が見えた。
「あそこに何かあんのかっ」
「可能性はある!」
大声を出さなければ、近くにいても聞き取れない。
ガウシェンは、ぐいぐいと人をかきわけ、前へ進んでゆく。
街道は人で溢れかえっていた。
武装した男が石畳のあちこちに這いつくばり、また剣を振り上げ誰かを探している。
商店はほとんどが閉められ、店の前では店主らしき者達が、開店を求める酔っ払いや行商人らを相手に、
身振り手振りで必死に何かを訴えている。
商売女は群れる人混みに転び、馬は立ち往生。
馬の引き手は、喧噪に馬が暴走しないように必死で手綱を握っていた。
凄まじい有様だ。
「やりすぎだろう!」
「俺じゃねぇよっ!!」
前方に叫べば、すぐに怒鳴り声が返ってくる。
何を、と言い返しそうになったが踏みとどまる。今は、言い争っている場合ではない。
周りを押しのけて、人でごった返す街道を横切る。
途中、地面に飛び散った血痕や建物の破損を目の端におさめ、目前の小さな倉庫へ走った。
勢いよく門を開く。
倉庫は明かり一つ点いておらず、奥は全く見えない。
「誰かいるか!」
声を張り上げるが、返事はない。
だが、居る。
奥で微かに息を殺す気配がする。訓練された人間ではない、町の者だろうか。
「おいっ、さっさと出てこい!てめぇらも反乱軍と一緒にしょっぴくぞ!」
「…ガウシェン」
何故そういう言い方をするのだろう。
逆効果ではないのか。
だが、案外効き目があったらしい。あくまで、案外、だが。
「おおお前ら、傭兵じゃぁ」
「違う。俺達は反乱を食い止めにきた。危害は加えない、出てきてほしい」
「すっスレいル、軍の」
聞こえたのは、か細く嗄れた男の声いた。
ごそごそと動く気配が伝わってくる、スレイル軍だと思い焦っているのか。
どう答えるべきか、思案する。
否定するのは容易いが、――。
「さっさと来いっ急いでんだよ!ディレインって言や満足か!!」
眉を寄せ、苛ついた様に声を出すガウシェンの声に、奥の人間はびくりと反応した。
急いたようにいきなり動き出したかと思うと、倉から這い出て来、ガウシェンの足下に縋りつく。
「ディレ…・お願い、いたします!アシュヴァ、ル様を、助けてくださぃっ!」
つっかえながら、必死に声を絞り出す男は、声以上に皺だらけで年を取って見える。
さらに、門からもう一人、こちらも深い皺を刻んだ顔に涙を流し、女がよろよろと出てくる。
「どうかっ、どうかアシュヴァール様を!怪我っをされて」
「アシュ……って前侯爵か!?」
目を見開くガウシェンに、こくこくと男は激しく首を振る。
「どこだっ、どこに居る!!」
「お、一人で傭兵を相手する、と!南から東門、のやどへっ!」
「っちくしょう!!!」
盛大に舌打ちすると、ガウシェンはいつになく慌て、倉庫の脇を通る道へ走り出す。
俺もすぐさま後を追う。
「ダリスっ!!」
あらん限りの息を吐き出し、叫ぶ。
返事はない、けれどもう一人の影には聞こえているはずだ。
「前侯爵を探せ!保護しろっ!」
コツリ、と頭上の民家の屋根で音が聞こえた。
小路の角に見えなくなったガウシェンの背中を追い、俺は南町を駆けた。