一難去ってまた一難。壱


今日の、もしかしたら昨日の夕方から獣道を歩いてきた足は、そろそろ休憩を欲している。

なにゆえ、私が……。
何度も考えて、そのたびに虚しさに襲われる問いの原因を作った人達は、今頃どうしているだろう。
悪運、もとい強運の二人だから、万が一ということはないだろうけれど。
私が宮城にいないことは、既に知られてしまっているだろう。
その上で、私達を軟禁したあのダンディおじ様――アルノー伯爵と言うらしい、 がどう判断を下すのかだけが気になった。

昨日の朝、私達が捕らえられた驚くほど快適な宮城の部屋に姿を見せたアルノー伯。
他にも捕まった貴族が多数いた状況で、全員の部屋を回ったとは考えにくい。
また、スレイル貴族の彼からして見れば、敗戦国側の私達に特別配慮を加える理由はない。

朝に感じた疑問に答えをくれたのは、他ならぬダンデ……アルノー伯だった。



都の周辺、とくに西には、住民ですら踏み入るのに用心する奥深い森が広がっている。
広大な広葉樹の森は、奥へ行くほど道を塞ぐ川が多くなり、 外部の者は迂回するだけでも相当な時間を取られるはず。
無理に渡ろうにも、この森の川にはそれぞれ特別な力が込められており、機嫌を損ねればただでは済まない。

大丈夫、地の利は確実にこっちにあるんだから。
捕まるなんてヘマ、絶対にしない。

自分に言い聞かせる。


古代の魔術が未だ息づく森で、一人きり。
生い茂る木々が星の光、月達の光すら遮り、地上にはわずかばかりしか届かない。
寂しすぎる状況だった。
ここに住む肉食獣の頭数が、そう多くないのが唯一の救いかもしれない。

ちょっとだけ、休もう。
小一時間、30分だけでもいい。
これ以上の強行軍は、必ず翌朝にツケとして回ってくる。
張り切って、持ってきすぎた荷物が、ずしっと重く背中にのしかかる。

この森を抜けたら、湿地、その次は平野が続く。
ここで追跡者に差をつけておかないと、祖父母の家までもたない。

いくらスレイル軍がこの森に不慣れだと言っても、地元民を味方につけられたらまずい。
こっちは一人、むこうは戦を勝ち抜いた屈強な男衆。
森へ入る直前に従兄の家から、長剣を失敬してきたけど、それで事足りるとは思えないし。

私の体の倍以上ある幹の根本に座り込む。
ちょうど幹が内側に窪んでいるから、姿を隠すにはぴったりだ。
よし、後はっ……と。
辺りは、巨大な幹に似合う、大きな葉が地面を覆い尽くしている。
不自然にならないように、できるだけ均等に周りから落ち葉を集めて、こんもりと寝床の周りに盛った。
はい、簡易ベッド完成。

うーん、1……いや、2時間!
私の特技、どんなに疲れていても眠くても決めた時間に起きれること。
今日ほど役に立つとは思わなかった。

幹の窪みに頭を傾け、膝を抱えた体勢でいると、すぐに睡魔が襲ってきた。
うわぁ、やっぱり疲れてる。
2時間、あとちょっとだけ、……そしたらすぐ、に、おきる、から……。

意識は急速に沈んでいった。



 *



「――ぃ、おい?誰だ」

「……っ!!」

飛び起きた。
文字通り、ガバリと顔を上げる。
目の前に、だいたい4メートルほどか、突如現れた人間の影を凝視する。
影は男のようだった。
こちらからは逆光になっていて、あまり判別できない。

「起きたか、こんな所で何をしている」

「……」

答えたいのに声が出ない。
たぶん男、の人は、緩やかな口調だった。
深みのある低い声に、癖のない完璧なスィムド語だ。
けれど、私からは見えない瞳は、私の動きを1秒も見逃すまいと、神経を張りつめているように感じる。

誰だろう、この人。
軍人、狩人……地元の人、じゃあなさそう。

「あ、の。あなたは、」

あ、質問に質問で返してしまった。

「ああ、俺か。名乗っていなかったな」

どうやら気にしてないらしい。よかった。
ほぼ男性確定、の人は、一度言葉を切り、そして名乗った。

「俺は、グレイ。スレイルの諜報員だ」



「…………」


……なんですと?
諜報員、ってあれよね。
間諜とか間者とか言われる、……スパイッ!?

思わず目を見開く。
この人が諜報員ってことではなく、それをさらりと暴露しちゃったことに。
……いいんでしょうか。
なんか、とんでもないことを聞いてしまったんですが、私。

「わ、私を、その、殺す気?」

浮かんだ疑問を脳会議にかけず、口に出してしまう。
いけない、動揺してる。
戦闘になるかもしれないのに、これじゃあ。

「殺す?物騒だな、また」

いえいえ、スパイのあなたの方が余程穏やかじゃありません。

「安心しろ、やるなら声なんてかけない」

確かに。
けど、それは最初の話であて、今現在の状況じゃないような。

「どのみち危害を加える気はない」

彼、グレイは私の心の疑問に答えてくれた。
というか、私。そんなに顔に出やすい?
顔なんてこの暗さじゃ見えていないはず。その事実にすら、すぐに気づけなかった。

「あ、のー」

「さて、俺は名乗ったぞ。あんたは?誰なんだ」

やっぱりこの状況はまずいかもしれない。
スレイルの関係者に本名は名乗れない。
かといって、出任せ言って後でばれてもこわい。

「私は、」

どうしよう。
うまく切り抜けられないかな。


「……!」

「え?」

急にグレイの纏う雰囲気が変わった。
視線のあまりの鋭さにぞくり、と背中に痺れが走る。



結果的にそれがよかった。
グレイの緊迫した空気に呼応するように、高まった私の集中力が左の方向に複数の気配を探知したから。
数は、……わからない。
分かるのは、人じゃない、ということだけ。

その時、グレイの舌打ちが聞こえた。

「月狼か」

げつろー、月狼か。

「そ、んな…どうして――」

この森に狼はいない。
動物自体が数少ないこの場所では、食料が十分でないからだ。
特に月狼は群れをなして移動するため、単体より生息範囲が限られる……のに。

グレイの視線を追い目を凝らすと、そこにいたのは確かに月狼だった。
あの、全身濃灰の中に、丸や三日月形の白い額の印、見間違いようがない。

なんで、ともう一度出そうになった疑問の言葉を飲み込む。
そんなこと言ったって居てるんだから仕方ない。
問題は、その月狼達に獲物扱いされてるってことだ!

「あんた、剣の心得は」

ちらり、と私を見た気配がする。
私が抱えている長剣を見て、尋ねているんだろう。

「ある」

短く答えて、膝上に置いていた剣の柄に手をかけ、立ち上がる。
日の出が近いのか、若干明るくなった視界が4匹の月狼を捕らえる。
一気に緊張と、冷や汗が吹き出す。
じりじり、と間を詰めてくる月狼に私は半歩後ろに退く。

剣の心得は、ある。
実践で使ったこともあるけど、それは平地で一対一の人との勝負でだけ。
どこに段差があるかも分からない、落ち葉が全て覆い尽くしてしまってる、 そんな場所で大型肉食獣相手なんて、絶対不利だよ。

「いいか」

私の心中などお構いなしにグレイが鋭く声を上げる。
うう、そんなの頷くしかないじゃん。


と――“何か”が聞こえた。


気のせい、じゃない。
確かに聞こえる、耳から入ってこないけれど。

軽く頭を振る。
まだ、聞こえる。呼ばれてる?
月狼を見る、噛みつかれれば一溜まりもなさそうな鋭利な牙を剥き、こちらを凝視している。

「おい」

グレイに呼ばれる。

「待って」

気づくと、私は言葉を発していた。
真ん丸で真っ白な額印を持つ月狼と見つめ合う、その時、“声”が聞こえた。

「ああ、お腹が空いてるんだ」

納得。
だからこんな南に下りて来ているんだ。
本来の住処はもっと北、ネフェーの湖辺りのはずだった。
群れの精鋭部隊が食料を調達しに来たのだろう。

「ちょっと待って」

リーダー格らしい満月印の月狼に言うと、わずかに緊張が緩んだ気がした。
その反応に満足して、急いで持ってきた大荷物を漁る。

「おいっ、何を――」

「待ってて!」

叫ぶように言った時、お目当ての物を見つけた。
出てきたのは干し肉袋、当座の食料と思い、持ってきすぎていたんだけれど、役に立ってよかった。
それを全部月狼に放り投げる。

「それしかないのっ!」

満月の月狼に叫ぶ、去ってほしい、という願いを込める。
お願いだよ、必死に念じる。

月狼4匹を相手にするのはしんどいだろうけど、できないわけじゃない。
私一人だったら無理だけど、こっちには幸か不幸かグレイがいる。

臨戦態勢の彼の近くにいて、――感じた。
この人は強い。
とてつもなく強くて、敵と見なしたらきっと容赦しない。
私なんて足元にも及ばない。

下手したら死ぬけれど、実際けっこうやばいけど。
お伽噺とか伝説とかで語り継がれる動物を殺すのは、嫌だった。

「お願い……」

呟く、目は月狼から離さない。
グレイは、さっきから変な行動をとってばかりの私に、なぜか何も言わない。

月狼達は戸惑っているようだ。
満月印の月狼君が、クンクンッと袋を嗅ぎ、器用に袋から干し肉を一枚だけ出すと、食べた。
その様子を、私もグレイも他の月狼もじぃーと見守る。

「ウオォォーーッン」

突然吼えたリーダーに、緩んでいた気が張りつめる。
しかし、満月印の月狼はぱくりと干し肉袋を加えると、くるっと方向転換し、他の月狼達に目配せした。
そして、そのまま森の奥へ走っていく。
じんわりと、体の奥から歓喜が湧いてくる。
リーダーに言われたら他の月狼も従わざるを得ないのか、満月印の月狼君に続き、駆け足でこの場を離れていく。

「北にお帰り!もう動物たちも戻ってるだろうからさーっ!」

声を張り上げ、手を振って私は彼らの背中を、正確にはしっぽとお尻を、見送った。
あーよかったっ、なんにもなくて。
干し肉はなくなったけど、こっちには木の実でも、色々食べるものはあるしね。

なんて。
暢気に考えていたから罰が当たったんでしょうか、お祖母さん。



「で?」

「……え」

声に振り向くと、恐い顔をしたグレイとばっちり目が合ってしまった。
目も鋭い、私を見据える瞳の色は同じでも、含まれる感情は最初の頃とまるっきり別物だ。

「いったい、……お前は何者だ」

うわー声もさらに低くなっていらっしゃる。
まずいな、一難去ってまた一難。

「…………」

けれど声が出なかったのは、グレイの重低音の声でも吸い込まれそうな瞳でも、威圧感のせいでもなかった。
夜が明けたんだろう、さっきよりさらに明るくなった森の中で、グレイと対峙する。
見えなかった詳しい顔の造作が、見えてくる。

アーモンド形の目、男性にしては細い眉、すっと通った小さめの鼻、形よく薄い唇、全てそっくりだ。
牡鹿のようにすらりとした顔と体。
瞳の色は違うけれど、髪の色はほぼ一緒。

目を見開いて、グレイである人を凝視する。

こんな驚いたの何年ぶりだろう。
いや、ガウ兄が右腕をなくしたって聞いた時も同じくらい驚いたっけ。
じゃあ、半年ぶりか。

冷静に考えている自分が、ちょっと怖くなる。
この平静さは驚きすぎてどうにかなってしまいそうだから、だ。

甦るのは、もう何年も会っていない人で、もう二度と出会うことのない人だ。
ぽろり、と私の口から、息と一緒に言葉が漏れた。

「アレク様……」

と。







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