「「はぁー」」
部屋にはさっきから重苦しい空気が漂っている。
二人から吐き出される息が、悉く有毒かと疑ってしまうほどに、この部屋の雰囲気は暗く、
息苦しくてたまらない。
「溜め息ついたってどうしようもないでしょう?」
「そうは言ってもな……」
「そうねぇ」
どうにか明るい声を出し、陰を陽で中和しようとするが、これまた失敗。
一日前からずっとこの状況が続いている。
本当になー。
我が親ながら、一度凹むとどこまでもネガティブな人達だ。
*
半年前、私の祖国アルグバードは、北方の大国スレイルに戦争で負けた。
まぁつまり、滅ぼされた、ということだ。
敗戦国側の人間の末路なんていつの時代も同じようなもので、
重税、圧政、不毛な土地への強制移住、戦勝国への隷属などなど。
……とは、ならなかったのですよ、幸いなことに。
王政廃止と条件付貴族制廃止、停戦会議でスレイル側の要望はこの二つだけだった。
もちろんアルグバードはスレイル帝国の一部になるけれど、
既存の州と差別せず、平等の地位を与えると皇帝は明言したらしい。
これには、陛下も堅苦しくて小うるさい大臣方も驚いたみたいだ。
当然、私だって目を丸くして叫んでしまった。
なんていうか、豪気なのか無謀なのかわからない皇帝様だ。
けれどそのおかげか、陛下や大臣達は完璧にスレイル皇帝に信服し、
後の調停はすごく簡単に終わった…らしい。
スレイル帝の策略かどうかは謎のまま。
と、いうわけで。
本来なら、一応爵位を持っている私の家も、条件付とはいえ貴族制は廃止なのだから
その事で身の振り方を悩まなければいけないんだ、けれども。
いや、分かってたけれど。
うちの両親に、そんな一般的で常識的な事で悩めと言っても無駄だって事ぐらい。
「はぁーーっ」
デカデカと溜め息をつき、しまった、っと慌てて口をふさぐ。
危ない危ない、と向かいのソファーに座る両親をちらりと見る。
木乃伊取りが木乃伊になるところだった。
気をしっかり持て、私。
頑張れ、負けるな。ヨセフとお祖母さんの命運は私に掛かってる!……はず。
グッ、と両手を握り拳状態にしたところで、コンコンと音がした。
「っ……はい」
動揺した自分を一瞬で胸の奥底へ沈め込む。
返事を返す前の0.5秒間に両親を注視する。
父は頭に添えていた手を下ろし私に向かって頷き、母はここ半年変わらぬ青い顔を、
さらにもう少し青くしただけだった。
「失礼する」
意外に良い声と同時に入ってきたのは、恰幅の良い50歳前後の男だ。
糊の利いた濃紺の上着を着て頭を撫でつけた人物は、私達の頭にすっと視線を走らせた。
文官然とした出で立ちとは対照的に、その目はじっと獲物を観察し狩る機会を伺う捕食者のようだ。
入室者の体が全て部屋に入りきると同時に、私達は立ち上がった。
「あ、いやいや。どうぞ、お掛けいただいたままで結構」
そう言われて、はいそうですかと腰掛ける人はいないだろう、しかもこの状況で。
私は軽く黙礼すると、両親が座っていたソファーの背後に回り込み、ぎりぎり下半身が隠れる場所に立ち直した。
たっぷりと髭を蓄えた男――たぶん、ってか十中八九武官の男は、
部屋の隅に置かれていた一人掛けの椅子を移動させようとしていたが、私の行動を見て、
「いや、これはすみませんな、お嬢さん」と言いながら、
両親の向かいにある、これまた二人掛けのソファーにどっかりと座った。
「どうぞ、お掛けください」
その声でようやく両親は腰を下ろした。
よしっ、私は心の中でガッツポーズを取る。
さっきまでの暗雲が嘘のように父も母も落ち着いている。…いやちょっと前も、別に慌てちゃいなかったが。
私は二人が狼狽えて取り乱した姿を見たことがない。
何事のつけてもマイペースを地でゆく人って、こういう時ほんとにお得だわ。
かという私もポーカーフェイスはそれなりにできる、と思っている。
従兄に言わせれば、『祖父さんの仏頂面を受け継いだだけ』らしいけれど。
仮にも女性に向かって失礼極まりない。
だから彼女の一人もできないんだよ、とは報復が恐いので決して言えなかったが。
「さて、すでにご承知とは思うのだが」
いきなりダンディな声で話し出した男――この際ダンディおじ様でいいか、に慌てて注意を戻す。
「先日、ザイン侯爵領で反乱が起きたとの報が入った。
その報せに前後し、ザイン候と懇意にしていた者を中心に多数の貴族が都からの脱出を図った、と報せ聞いておるわけだ」
「貴殿は、我等も同一の行動をとることを懸念なさっているのですね」
「左様。しかし、…ふふっ、いらぬ世話でしたな」
厳めしい顔から一転、ダンディおじ様はでろんと破顔した。
その変わり様があまりに急だったので、不覚にもどの表情を選んで良いかわからず、
変な風に顔面筋肉を動かしてしまった。
ううっ、悔しいけど向こうの方が一枚上手だ。
「それは、ありがとうございます」
下から聞こえてきた言葉に目を向けると、父は至って平然と受け答えしている。
……年齢の差ですか、そうですか。
経験だったら私だって負けていないはずだけれど、年なら競うまでもなく完敗だ。
成人を一つ過ぎただけの私の前には、間違いなく二度目の成人を迎え終わった人達が座っている。
「礼は結構。残念ながら、あなた方がここから出られぬことには変わりありませんのでな」
おじ様の言うとおり。
この人が入ってきた時ほどの緊張はなくなったけど、私達の置かれた状況が好転した訳じゃない。
と、そこで何かが引っ掛かった。
なに――?
何に違和感があるんだろう。
ダンディおじ様が「申し訳ありませんな」と言い、父が「いいえ」と社交辞令を返している間、
頭をフル回転させる。
おじ様が私を見て、本当に申し訳なさそうに眉尻を下げるのに笑顔を返す。
その実、ソファーで見えない場所では、思わず上がりそうになった腕を必死で押さえつけていた。
おじ様が私から視線をはずした瞬間、どっと冷や汗が吹き出す。
私の癖、考え事をする時、顎に手をあてて目線を上げてしまうこと。
直さなきゃと思い続けて、ここまで放置状態だった。
ん?……あっ、そうか。
ぽろり、とあっさり疑問は解けた。
「ですが、一つお願いしたいのです。
妻は生まれつき病弱で、特に最近の周囲の変わり様にはすっかりまいってしまっています」
父が珍しくはっきりとした口調で喋っている。
労るように横に座る母の肩に手を置く父、傍から見れば絵に描いたような、まさに比翼連理の夫婦だ。
しかし娘は知っている。
この人達は、決して世間一般のおしどり夫婦とはちがうのだ。
娘の、つまり私の、胡散臭い視線もなんのその、父は淡々と話し続ける。
「しかも、反乱を起こした地域には、父母と息子が滞在しているのです。
隠退しずいぶんと経つ老夫婦と、まだ幼い我が子が敵地にいるかと思うと……」
おいおーいっ、あなたが泣きそうな顔してどうするんですか!
私の声を代弁するように「あなた、」と母が父の手を握り、しかし期待を裏切って一緒にしずしずと泣き出した。
な、泣き落とし作戦か。
絶対に通じない相手だと思うんだけど、とは口に出さず、仕方なしに私も両親の芝居――
であってほしいと思うもの、に乗ることにした。
「お父さん、気を落とさないで」
一日ぶりの年頃のお嬢様っぽい大人しい声に、出した自分が少し肌寒くなる。
ちらり、とソファーと机を挟んで向かい合うおじ様を伺うと、困惑した顔とかち合った。
さすがに恥ずかしくて、視線を伏せる。
さて、この似たもの夫婦どうしてくれよう。
コホン、と軽い咳払いが聞こえて顔を上げると、おじ様は気まずげな顔で頭を掻いた。
「落ち着いてくだされ、お二人とも」
居たたまれない、とはこういう事を言うんだろうか。
いい年した大人が泣き落とし、麗しい乙女じゃあるまいし。
「す、すみません」
思わず謝り、父達も謝罪させようと下を見た。
すると。
「そういうわけでですね。この……」
そういうわけって、どういうわけ?
お父さん、その会話はどこから繋がってくるんですか。
そこで父は初めて私を振り返った。
そして、すぐに顔を戻し、おじ様を熱心に見つめ、言い放ったのだった。
「一人娘を、ザイン領へ行かせていただきたいのです」
「…………」
聞きまちがいだろうか。たぶん、違うと思うが。
仮にも父親が、娘を戦争が起こるかもしれない地へ送り出すなんて。
いや、それ以前の問題だけれども。
そろーっと、ダンディな声と髭を持つおじさんに目を向けると、案の定渋い顔で思案していた。
言われたことがいまいち飲み込めていないんだろう。
そうだよね、耐性ない人にいきなりこれは、レベルが高すぎる。
父と母の真意を汲める度合い、という名のレベルだ。
「承知していただけないでしょうか。娘が父母の元にいるとなれば私も妻も安心なのですが」
頭の回路のどこをどう通れば、そういう結論になるんでしょうか。
「何が……その、どう安心なのですかな」
ごもっともです。
本当は父達の味方をしなければならないんだけど、私と意見の合う、
もっと言えば正論を言っているのは間違いなくおじ様だろうから、ついそっち寄りになってしまう。
「私の父はかつては騎士団に属しておりましたが勇退して久しく、
また母はしっかりした方ですが、寄る年波には勝てません。
息子はまだ11歳で、自身で身を守ることは難しい。
しかも、隠退したとはいえ、父が騎士団に所属していたことはザイン候もよくご存じです。
必ずや接触を持ち、そこから騎士団員と連絡を取ろうとするでしょう」
再びぺらぺらと喋りだした父に、私は呆れ半分、ダンディおじ様は目を丸くして見ている。
大人しい、神経質な学者肌だと思っていたんだろうな。
実際父は学者だし、それなりの地位にいるけれども、世間の評価と実物とは必ずしも一致しない。
「父が反旗を企てる者達に手を貸すとは思いませんが、父の決断如何に関わらず、
三人が反乱の渦中に巻き込まれることは確実なのです。……そこで、」
あ、とうとうきましたね。
じーっ、と父を見ていると、視線に気づいたのか、にっこりと笑いかけられる。
ああ、そして私の気持ちに1ミクロも気づいていない。
「娘、ナスターシャは丈夫ですし、今年で二十歳になりますから判断力もあります。
この子が父母といてくれるなら、私も安心ですし、妻の心労も和らぐでしょう」
会心の笑みを浮かべて、父は言い切った。
顔だけは良い父の笑みを向けられたおじ様は黙り込み、私は頭を押さえたくなった。
*
その後、いくつかやりとりはあったものの、結局おじ様は「考えておこう」と話し合いを放棄し、
退出していった。
ダンディおじ様がいなくなって、完全に緊張の抜けた私は床にへたり込みたくなった。
「うふふ、本当に。ナーシャが行ってくれるなら安心ね」
「そうだろう?」
母は父の手を握ったまま、和やかに笑っている。
さっきまでの悲愴な雰囲気はどこへ行ったのやら。
「お父さん、本気?」
後ろから聞くと、振りむいた父のきょとんとした目が見え、私は言おうと思っていた反論全てを諦めた。
「本気も何も……」
「ナーシャはお義祖父様のところへ行ってはくれないの?」
どうして、泣きそうな声してるの!?
うるうるとした瞳で尋ねてくる母の上目遣いに、私は白旗を揚げた。
やはりさっきの泣き落としは、お芝居じゃなかったらしい。
演劇やお芝居には裏で考え操る人がいるけれど、この人達には良くも悪くも裏がない。
ない裏では、嗅ぐことも推し量ることもできない。
「はぁー」
盛大な溜め息が口から漏れる。
「ナーシャ?」
「どうした、具合でも悪いのか」
この瞬間、私は木乃伊取りが木乃伊になってしまったことに気づき、さらに肩を落とした。